ubuai

ウブドより愛をこめすぎず 第1話

渡航前夜

  すっぱい匂いが漏れ出る黒いビニール袋の口を縛ると南田幾三はドアを押し開けて外に出た。大きなバケツにそのゴミ袋を放り込んでフタを閉めると思わず「ふーっ。」と口の端から漏れるように溜息が出る。今日の店閉め作業はこれで終了だ。明日から二週間、南田は日本での日常から離れ南国バリ島へと旅立つ。今回はただの旅行ではない。長年の夢だったカフェを現地で始めるためのはじまりの旅だ。そう思うだけで彼の胸は大きく高鳴った。
 実は1か月前にバリ島の友人から電話がかかってきた。なんでも格安で好立地の物件がみつかったらしい。前々から探してほしいとは言ってあったものの、まさかこんなに早く見つかるとは思わなかったので、その日から今日まで仕事場から行きかう人にまで全員に向かって胸の内を打ち明けたいぐらいのテンションをキープしている。それは傍目から見たら異様に映るらしく、仕事仲間のウェイターたちからは「南田さんに彼女ができたのではないか」と噂されている。噂だけでなく直接聞きに来た人もいるのだが「いやいや~そんなことないよーふつうだよおー」とこれまたハイテンションで返してしまうので益々もって疑惑は深まり、明日からとってある長期の休みも「きっと婚前旅行だろう」ということで結論が出されていた。
 「お疲れさん、二週間空いちゃうけどまたちゃんと戻ってきてよ~。ところであの一身上の都合ってことだったけどどこか旅行でもいくの?おほん。」店を出る手前で店長がみんなの代弁とでもいうように声をかけてきた。話したい…バリで、南の島で、カフェをオープンする準備に行くということを。いやそれはできない、それを言えばきっと…。言葉にできない思いに南田の顔は歪んだ。それを見た店長は
「いや、はは、いいんだよ。休むのは自由だからね。じゃあまた待ってるから!」と、肩をポンと叩いて南田を送り出した。その時の店長の眼差しが妙に悲しげだったのを不思議に思ったが、時間があまりなかった南田はそのまま立ち去って行く。それから数分後、閉め作業を続ける店内では婚前旅行は中止になったらしいという噂が駆け巡った。
 店の外に出ると人気もまばらだ。時計をみると夜の十一時を回る少し前。空には黄色いというよりも白い月がオレンジのスマイルカットのような形で輝いていている。南田幾三,三十三歳。その名である限り、南の島へ行くとはどうしても言えないのだった。

つづく